医療を支えるファシリティマネジメント7話最終回
医療を支える多様な人材と豊かな環境
看護の原点はファシリティマネジメント(FM)に通じる
看護の神様ナイチンゲールは建築家だったと私は考えています。彼女の「看護覚え書」の第一章は「換気と保温」、第二章は「住居の健康」だということをご存知ですか? 健康を保つのに環境と建築が如何に大切であるかを次のように主張してくれました。 「病気につきもので避けられないと一般に考えられている症状や苦痛などが、実は病気の症状などでは決してなく、新鮮な空気とか陽光、暖かさ、静けさ、清潔さなどが欠けていることから生じる症状であることが非常に多い。 看護とは患者の生命力の消耗を最小にするように、このような環境を整えることを意味すべきである」註1
彼女のもう1冊の代表的な著作「病院覚え書」はまさに建築書です。 彼女が設計を指導した病院をはじめ沢山の建築図面が示され、医者が疾患と闘っている間に看護師は患者を見守り環境を整えるべきだと強調しています。 彼女の主張は現代でも「患者の健康をどう支えるか」という点で参考にすべき点が多いし、別の見方をすれば建築や環境を使う人が如何に整え維持していくべきかという、建築・環境の原点を教えてくれます。
室内化学物質汚染に代表されるシックハウス症候群が問題になっている現代、人間の健康に害を与えない建築の整備から一歩進めて、人間が育ち健康が促進される建築をデザインすべきです。 これが健康建築であり健康デザインです。
病院という施設の目的(Goal)は人間の健康度を高めることだと理解して運営することが、医療を支えるFMでありナイチンゲールの目指した看護の原点にも通じると確信しています。 彼女は建築家だと書きましたが、建築の目的を的確に示し運用を考えた点でむしろ「FMの実践者」だったと言うべきかもしれません。
看護を取り巻く環境の激変
ナイチンゲールの時代と現在とでは看護を取り巻く状況がまるで変わってしまいました。建築空間や付帯設備は大きく変化し、医療技術も目覚しく高度化し、経営環境は厳しさを増しています。
建築的には彼女の頃の大部屋でなく個室化がすすみ、病室は壁やドアーで仕切られ廊下が長くて看護師の動線が長くなりました。 さらに病棟が主だった病院建築が巨大な診療部をもつ建築に変わりました。 これは患者のそばで看護するのが前提だった看護の様相を変え、動線が長い分の看護効率悪化が経営的に大きな負担になってしまいました。
高度な先端技術に取り巻かれて看護業務が飛躍的に増大しました。 今の看護師さんは患者の顔を見るより点滴薬の残量を見る方が時間的に長いのではないかと心配になります。 医師と看護師はもっと対等で独立した職種であった筈が、高度医療の中で一体になりすぎて看護独自の視点が薄れたように感じます。 忙しすぎる医師と看護師を支える周辺の職種を増強し、情報管理や物品管理などのサポートシステムが多様に整備されるべきですが、日本ではその点がまだまだ遅れています。
経営環境としては金のかかる高度医療を合理的に無駄なく運用することが求められています。これからの医療施設は医師と看護師の努力と経験だけでは運営出来ず、従来の手法とは違った組織・経営上の改善を必要としています。 院内に経営系の人材を揃えたり、業務委託範囲を増強する必要が強いことは最近のPFI事業の展開が示しています。
いずれにしても、最も近くで患者と接触する看護師の作業環境を整えることが、医療施設FMの大切な目的なのです。
看護拠点の分散化とサポートシステムの充実
彼女の提唱したナイチンゲール病棟は30−32床の大部屋で、その病室の中央の作業台が看護婦の業務拠点でした。 看護師は常に全患者の状況を観察しやすく、患者も常に看護師に急を知らせられる安心感がもてたのです。 その後、患者のプライバシーが重視されて病室が細かく仕切られると同時に、看護拠点も独立した部屋(ナースステーション)になりました。 しかし、最近は「看護は患者のそばで」という原点が見直されて、病室周りの廊下で看護業務を行いやすいように病室の出入り口附近にナースサーバーを設けるとか、中廊下全体をナースステーションとするカイザープランとか、物品や情報を各看護師に提供しやすくした上で看護拠点を分散する工夫など、建築と関連した運営上の工夫が行なわれるようになりました。
このシリーズ第1話で紹介したFM提唱者のハーマンミラー社は、FMを医療に適応させる第1着手としてコーストラックシステムを手がけ看護拠点を分散化させる条件をつくりました。 これは移動収納棚と言うべきもので、中央の物品供給センターから使いやすく整理された物品を看護の最先端まで供給して、看護業務から物品調達や使用記録の手間を省いたシステムです。 家具レベルの工夫が物品管理システムを変え、看護のあり方まで変えたのです。 ナイチンゲールは本人が何も知らないうちに、私によってFMの実践者にされていた訳ですが、当時と大きく変化した病棟で病院コンサルタント(ラリーヨーク氏)がコーストラックシステムを活用して、ナイチンゲールの提唱した看護の原点を再現したのです。注2
さらに最近アメリカでは看護の準備作業室とは別に、ナースステーションを完全にオープンなロビー状にして医療者と患者・家族との対話の場にした例も出てきました。 空間的にインフォームドコンセントの場を示しています。 患者自身や家族が医療に参加する為の完全な情報公開はナイチンゲールの時代には無かった発想でしょう。
FMは文明の利器に通じる
FMは建築系の人間がやることだと思っている方が多いでしょう。 FMが建築の維持管理だと理解するとそういうことになりますが、世界的にはもっと幅広い概念として捉えられ多様な職種の人々が関与しています。 この7話の最初にご紹介したFM研究所の初代所長は農学博士です。 農業は自然との対応が強く、どれだけ人工的な設備や施設を用意し、維持していくかが問題です。 漁業での人工飼育を思い出して下さればお分かりでしょう。 国際FM協会の会長経験者で土木出身元工兵隊の軍人がいますが、彼は戦争をサポートする基地の設営や人員や物資の輸送補給などを統括していた人でした。 これははまさにFMなのです。
文明の利器は英語でFacility of
Civilizationというのです。 Facilityを施設と訳していますが、本来は自然との対比で人間が考え出した人工的な道具や環境の総体を指しているのです。 農学博士や工兵隊軍人がFMに注目する訳です。
健康経営学と人材養成
第二次大戦後にアメリカ占領軍の指導で病院管理学が生まれましたが、私は病院経営学にすればよかったと思っています。 管理と経営は大差があり、管理学では金儲けではないが「合理的なマネジメントを行なってゴールを目指す」という概念が徹底しなかったと思うからです。 実は1980年代初めまでのアメリカのビジネススクールではヘルス管理(Health
Administration)を教育の柱の一つにしていたのが、次第に経営(management)が強調されるようになりました。 また、医療関連施設のFMには専門職種としてヘルスケア・ファシリティ・マネジャー(HCFMger)の資格認定制度が整備されています。
日本では現在、医学部や看護学部のカリキュラムに経営・環境・建築設備といった分野は見当たりません。 特に看護学部では医学系のカリキュラムで一杯です。 一方、医学系の教養教育は高校教育を補う性格が強いのですが、もっと総合的な視野を持ってもらう幅広い教科が必要でしょう。 医療経営学(健康経営学)が医学系関連の学部か大学院コースとして整備されることを望みます。
医師や看護師以外に医療を支援するマネジメントの人材を養成しなくてはなりません。病院の中の常勤者になってもらいたいし、業務委託する先の企業にも医療の分かる人材が必要です。 一方、ホテル学や図書館学などの専門家が医療分野に目を向けてくれることも必要です。 人が心地よく24時間を過ごす施設を維持することにかけてホテル学はプロであり、必要な情報を探しやすく整理・検索することに関して図書館学はプロだからです。 こうしたバックグランドの多様性がこれからの医療に活かされることが大切です。「人間の健康を守る」というゴールに向けて、さらに広範な専門分野が協力しなくてはなりません。注3
FMの連載を終えるに当たり、医師や看護師を始め医療に関与する多様な人材が「施設を活かす総合戦略」という広義のFM概念を理解していただきたいことと、医療を理解した「施設を維持経営するFM専門家・FM専門企業」の育成が重要であることを強調したいと思います。 よい建築がFM概念と人材によって活かされて、日本の医療が健康的に生き返るのが私の願望です。
註1:フローレンス・ナイチンゲール看護覚え書、訳:湯槇ます・薄井坦子・小玉香津子・田村真・小南吉彦、現代社、1968年4月25日第一版発行
註2:健康デザイン(健康をサポートする環境づくり)監修:柳澤忠、編集:柳澤忠・宮治眞・三田勝巳、医歯薬出版株式会社、2000年8月1日第一版発行
注3:建築が病院を健院に変える、編集:健康デザイン研究会、彰国社、2002年6月10日第一版発行
|