ルーズ・ソックスの怪 柳澤 忠
この3月14日の北京空港は春まだ遠く底冷えのする寒さであった。たまたま空港で日本の修学旅行の一行に出会ったが、女子学生は全てユニフォームに白のルーズ・ソックス(靴下を足首のあたりでだぶだぶにゆるめるはき方)で統一されていて、一般の服装と違って目立った存在であった。数年前、始めてルーズ・ソックスが出現した頃には、ユニフォームを始めとする学校の規制に対するささやかな抵抗として、個性的な服装デザインの試みとして、私は好感をもって受け止めていた。しかし、その後全国どこへ行っても流行していてうんざりしてきた。個性的などという存在ではなくなったのである。寒い海外にまで進出するとなっては呆れるばかりである。
学校や親の強制ではなく、学生自らが友人と同じであることに安心する「個性の発揮とは対極の集団規制である」と私には思える。そもそも男子の学生服姿は外国人には軍人に見られるので、パスポートに使えないと聞いたことがあるが、女子のセーラー姿にルーズ・ソックスはどう受け止められるのであろうか?
先日「名古屋港」という雑誌にロシアの留学生の手記が載っていた。その概要は「祖国だったソ連の共産主義社会は崩壊したが、日本に来て見たら共産主義社会が存在していた」というのである。「日本人は官僚主義・形式主義・無責任組織であり、国に基準があって地方の自主性がない。皆が他人と同じ意見だと安心しているようだ。これはまさに共産主義社会ではないか」と主張する。私には思ってもいないことなので驚いたが、良く考えると思い当たることがある。日本の学生は講義を済ませて質問はないかと聞いても殆どない。アメリカの学生だと講義している最中に質問するのが普通である。日本の学生は自分の意見はまとめて発表出来ないが、欧米の学生はまず自分の意見を発表する。小さい時から発表の訓練をしていないのが影響しているのだろうが、自分独自の意見を持つことを避けているのではないか?心配である。他人と同じ意見なら安心だから、講義を鵜呑みにしておけば無難だと考えているのではないか。
私はこの春入学する新入生に歓迎の言葉を述べる。「デザインの生命は個性である。日本がデザインの世界で国際競争力を付けるには多様で優れた個性がなくてはならない。これがなければ21世紀には生き残れない。大学は講義などで沢山のヒントを与えるが、それは諸君が自分の意見を形成する参考にしてほしいからである。学生は与えられた教育を受け取るのではなく、自ら学びとる問題意識をもってほしい。講義からヒントを得て自分の意見を形成する為には、質問しなくてはならない。社会に対して自分の専門性を売り込む為に、大学に入学して自らを鍛えるのだと考えて欲しい」と。
また、就職シーズンにリクルートスーツが街にあふれる。学生を受け入れる企業は個性的な専門性を求めているのだろうか?皆同じ服装の学生を見て企業の方が安心するのだろうか?
今日、学生には就職の選択権がない。社会が、企業が21世紀に生き残る為に、特にデザイン系の企業が国際競争力を獲得する為に、自分の意見をもった個性的な若者を選考するべきだと思うがどうだろうか? 何とか学生がリクルートスーツを用意しなくてすむ環境を実現してもらいたい。のびのびと個性的に育った若者を評価する環境を実現してもらいたい。
中部版 建築ジャーナル1999-5No.940より
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